1959年5月28日と29日,アメリカ国防省にコンピュータのユーザとメーカーなどから約40人が集まって会議を開き,「共通の事務用プログラム言語」が必要との結論に達した.この会議が母体となり,CODASYL(the Conference on Data Systems Language)が結成され,11月に約2週間でCOBOL言語仕様が開発され,1960年4月にCODASYL-60として発行された.
日本でも1961年にはCOBOLが話題となっており,日立から高橋延匡(その後,東京農工大→拓殖大)と永井雄二が,COBOLの勉強のためにアメリカのRCAに3ヶ月間派遣された.この2人が日本の最初のCOBOLプログラマである.RCAはCOBOLコンパイラを世界で初めて開発した会社であり,そのときはまだコンパイラは未完成だったが,プログラマ養成教育は開始していたとのことである.(これは,昨年12月の小春日和の日に奈良を散策しながら高橋先生から伺った日本のプログラミング秘話である.)
1960年代には,日本の20歳代の若手技術者・研究者がCOBOL紹介のために,1961年版と1965年版のCODASYL COBOLを協力して翻訳した[6][7].この翻訳を行ったのは,関根智明(慶応大学),大駒誠一(慶応大学),岡本行二(東芝),永井雄二(日立),西村恕彦(日本IBM→通産省電気試験所),前田英明(日本レミントンランド),吉村鉄太郎(東芝→管理工学研究所),魚田勝臣(三菱電機),丸山武(富士通)の面々で,日本のコンピュータの歴史とともに歩み戦ったつわものどもである.現在は60歳代半ばから70歳になり,相変わらず第一線で活躍中だったり,第2の仕事を楽しんでいたり,白髪まじりの好々爺として悠々自適・晴耕雨読の生活あるいは療養しながら執筆活動と人さまざまである.
なお,CODASYLは純粋の民間団体として運営され,政府機関も一会員として参加した.近ごろ勢いが強いOMGやW3Cなどの民間標準化団体の先駆者として再評価されている[8].